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2020-09-25

28.賭博行為に対する国民のパーセプション

賭博とかギャンブルという言葉は、言葉自体が否定的なイメージを持っていると考えてしまうのは日本人一般の普通の考え方なのであろう。
暗い、後ろめたい、好ましくない等という心象を何も考えずに持ってしまう。
これには歴史的・社会的な経緯もあり、人々の頭の中に印象として、時間の経緯に伴い形成されてきたに違いない。

太古より遊びは存在したし、金銭や物を賭け事の対象にすることは人間社会にとり、良くなされている通常の慣行、遊興でもあり、珍しい行為ではない。
もっとも「遊ぶ」ことは「働く」ことの対局にある考えでもあり、勤勉を旨とする近代社会における倫理的概念からすれば、本来好ましくない範疇に入る。
賭博行為とは利用するツールもプロダクツも金銭になり、働かずして一瞬の内に大金を手にすることもできれば、逆に一瞬にして働いた対価を全て無くしてしまうこともある。
全ては僥倖、確率の勝負になり、果たして勝つか負けるか解らない遊びだ。
これが興奮を呼び、我を忘れてしまうリスクをもたらしかねないということもありうる。
金銭的報酬はあくまでも労働の対価、これを賭け事に使う等は(勝つことも、負けることも)もってのほかという倫理的な考え方は、一般の国民の心情としては根強いものがある。
特に明治以降の近世においては、政府が政策的、制度的にかかる倫理感を国民に教育的に強制したという事実がある。
第二次世界大戦後の現代では、政体も、制度も根本的に変わったにも拘らず、勤労、勤勉、貯蓄は日本人にとり、当然の守るべきエートス、価値観・倫理観として残ったままである。
勿論為政者にとり、かかるエートスの存在は、国民がそう思っている限り好ましいという判断になり、かかる政府の意思が国民を一定の方向に誘導したという側面もある。
高い倫理規範は何らおかしな話ではないのだ。

宗教的価値観がかかる倫理感を更に高めるという側面もある。
キリスト教、イスラム教、仏教等いずれの宗教も賭博行為を積極的に認知する考えは無い。
逆に忌避する教義をもっていることが通例であろう。
宗教上の教義である場合、信念を変えることはありえないわけで、教会や特定の宗教信者が強力なギャンブル反対派を構成することが多い。
一方、わが国では宗教的価値観はあまり強く表にでない。
結婚式はキリスト教、葬式は仏教とプラグマチックに祭式を変え、日常的には無神論者的な人が多い国民性だからだろう。
勿論個人として、宗教的な信念がある場合、賭博行為等は(理由もなく)悪、忌避すべきものという認識になってしまう。

カジノ等の賭博行為を認めた場合、コミュニテイーにおける良好な公序良俗が保持されず、治安が悪化するのではないかとする市民の漠とした不安、不信感も国民の心象として存在する。
我が国では、歴史的に賭博行為はヤクザ等の暴力団が裏の世界でこれを担ってきたという事実がある。
国民のパーセプションとして、賭博行為は不法な世界、ヤクザが関与し、犯罪の温床、必ず悪いことに繋がっていると考えてしまうことが多い。
勿論これには昭和時代の東映等のヤクザ映画やハリウッドのマフィアの映画を想起してしまうという事情もあるのだろう。
ヤクザが賭場を開帳し、犯罪の温床となったのは過去の事実ではあるが、現代社会では、ヤクザは存在しているとはいえ、その活動は様々な制度や規制の枠組みでおおっぴらに存在できないようになっている。
米国でもマフィアがカジノに介入していたのは1960年代から70年代であって、現代社会では彼らはカジノから完璧に放擲され、健全な上場企業がその運営を担っていることが現実である。
もっとも我が国では暴力団や反社勢力が未だに現存するわけで、賭博カジノ等を認めたら、確実に彼らが介入しかねないと一般国民が考えてもおかしくはない。
更には、カジノはお金を生み出す利権、この利権に暴力団や政治家がからみスキャンダル化するという憶測も、職務権限を持っているとも思われない政治家が裏で金を受け取ったり、摘発後も証人買収を試みたりする等常識外れの行動をする政治家がいる国だ。
これでは利権も賄賂も事実に違いないと考える人が増えてしまうのも現実だろう。

一方新たな賭博行為を認めた場合、今以上に賭博依存症が増え、個人や家庭が崩壊しかねないし、社会的コストが増えかねないとする考えや国民のパーセプションも根強い。
一理はあるのだが必ずしもエビデンスに基づく議論ではない。
実態がよく解からないために誇張された議論や漠とした反対論、心象であることが多いのだ。
現代社会の賭博依存症は、日本ではパチンコに起因するのが殆どだが、過去詳細な実態分析も、効果的な対策もなされてこなかったという経緯がある。
カジノを契機に、しっかりとした政策的対応や支援、問題が生じない様々な措置等が検討されたり、実践されたりしつつあるのだが、問題を誇張して把握する心象が植え付けられているのが実体の様である。
遊興としての賭博は、成人による自己責任の下での遊興であって、誰もがのめりこんでしまうというものではない。
但し、最低のセフテイーネットは準備しておくというのが現代先進国の施策でもある。

国民一般がカジノに関し漠とした否定的なパーセプションを持っている場合、これを覆して、民意を変えさせることは並大抵のことではない。
おそらくエビデンスに基づく、解かりやすい説明を緻密に、時間をかけて実践していくよりほかに方法はない。
米国においてもAGA(全米ゲーミング協会)のアンケート調査によると、カジノ賭博の否定的なパーセプションは具体の施設ができ、着実・健全な施行・地域社会に対する貢献を住民が認識することによって、段階的に時間をかけ縮減していったという事実がある。
我が国でも事情は同様であろう。

(美原 融)

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