National Council on Gaming Legislation
コラム

2020-09-11

23.IRは不幸を呼ぶビジネス?

キャッチコピーというものは、何らかの形で人の心情に訴え、共感を呼ぶことで人の頭の中に残る。
その指摘が正しいか否か、適切か否か等は関係ないわけで、一つの言葉が論理(Logic)ではなく、感情(Emotion)として、人々の頭に最初に入った場合、詳細な中身を理解し、その内容を判断するということはしなくなる。
「不幸を呼ぶビジネス」とは、IR推進法を審議する過程において生じた賛否両論に対し、某大手新聞が一面の記事の見出しに大きく取り上げたキャッチコピーである。
その後国会での議論や様々な論文の中でこの言葉が使用されることになった。
「大きな経済効果」という主張に対し「不幸を呼ぶビジネス」という反論の表題を対峙させたわけだ。
論点はずれているのだが、対比の仕方は面白いし、かつ国民の耳目を集める表現だ。
大きな経済効果に対するロジックは否定的影響・社会的費用の大きさ等プラスの経済効果を縮減する否定的要素なのだが、経済効果にまつわる議論は賛否両論いずれもが推定の範囲をでず、前提も大きく異なり、議論がかみ合わない。
経済効果が否定的な社会的コストを大きく上回り、初めて商業的賭博行為は認められるというロジックは極めて正当なのだが、経済効果の正確な推定は、前提条件にもよるし、大まかな定量評価しか想定できにくい。
一方、否定的な社会的コストの算定はデータも、前提も曖昧なものが多く、かなり無理筋の話が多いという側面もある。
この様な場合、賛成反対の双方がイメージでレッテルを張る論戦が起きやすい。

不幸を呼ぶビジネスなど表現的には理解できても、そもそも想像できにくい。
ここにはあくまでも倫理的な観点から、やるべきではない、許されない、本来好ましくないというニュアンスが含まれている。
そもそもカジノの儲けとは顧客が負けた分(損金)、カジノとは確実に胴元が儲ける仕組みで、夢を与えて誘因する等庶民は騙されて賭け金を損するだけ、地域住民の富を外資民間事業者にもっていかれる、地域社会から富を収奪し、住民を不幸にするビジネス!というわけだ。
金銭の報酬はあくまでも労働の対価、それを賭け事の対象にし、一攫千金を夢見るなどもってのほかという倫理上の価値観、賭博行為は絶対悪とする考えがこの背景にはある。
これに加え、賭博行為は確実に市民を依存症リスクに晒し、これが過剰債務や自己破産に繋がり、個人、家庭、社会に不幸をもたらすというロジックも存在するようだ。
この意味では必ずしも繋がらない因果関係をリンクさせているにすぎず、反対のための反対という主張の一つになるのだろう。
民間事業者が住民を対象に倫理的な観点から営利行為をすること自体が悪とする考えは、特定の政治政党の主義主張に極めて近い。

もっとも上記考えにはカジノに対する無理解もあると共に、根本的な認識に問題もありそうだ。
カジノも公営競技や宝くじ、パチンコ等と同じ成人がたしなむ遊興の一つでしかすぎず、勝つか負けるかわからない、これを自己責任で楽しむエンターテイメントでしかない。
時間的楽しみや駆け引き・緊張・興奮等賭けた金額に呼応する相当のサービスとしての価値は当然あるのであろう。
買ったり、負けたりしながら時間を過ごすというのがカジノの遊び方で、胴元が常にだまして勝ち続けるということ等はありえない。
勝った段階で退出すれば、これは顧客が大きく儲けることになる。
カジノの売り上げは確かに顧客の負け分、それだけ巨額の金を吸い取られているという主張が必ずしも正しくないのは、総賭け金はもっと大きく、当然のことながら顧客の勝ち分は別にあるはずだからである。
勝った、負けたとしてお金が行き来すること自体が理解しづらいが、カジノの面白さは、うまく遊べばそこそこ勝てる、あるいはあまり負けないということにある。
だからこそはまってしまうリスクも高いということなのであろう。
もし、顧客が負け続けるゲームであったり、カジノ側がいかさまにより常に勝つというゲームであったりするならば、誰も顧客はカジノ等に近づかない。
人が来る、顧客が集まるのは、そこそこ人気がある、楽しく遊べるからであって、そこに遊ぶための価値はあると顧客が考えているからなのだろう。

カジノという遊びは、遊ぶ単価がそこそこである場合、買った場合には相当大きくなるが、一攫千金ということはまずない。
宝くじの場合には、当たる確率は交通事故にあうより低いため殆どあたらず、もしあたった場合にはそれこそ一攫千金になる。
カジノの場合にも賭ける金額が数十倍になることはある。
巨額には勝てないが、そこそこ勝てる確率は理論的には結構高い。
勿論かける金額が巨額だったり、遊ぶ持ち金が大きかったりすれば別の話だが、そんな金持ちは限定される。
かかる遊びを悪とみるか、善とみるか、個人の責任でやるかやらないかを判断させるか、そもそもかかる行為は一切認めず禁止させるべきか等は一国にとっての社会的・政策的な選択肢になる。
類似賭博行為は既に認められ、現に社会に存在しているが、既存の類似的な仕組みには一切反対せず、新たな行為は認めないというのもおかしな話だ。
何が善で何が悪なのか、その判断基準とは何かという議論はおこらず、曖昧、かつイメージとしての議論しか生じていない。

ところで、殆ど当たらない宝くじを「夢を売る」として巨額な費用を用い著名俳優を用いTV広告し、大々的に宝くじを売っている胴元は地方公共団体で、宝くじの収益は今や地方公共団体にとり、手放せない重要な財源の一つになっている。
見方を変えれば、これも国民に正確な確率値(あたる確率)を開示せず、確実に損をするくじを、あたるとして売り捌き、これが巨額の収益となっている。
これは倫理的に問題ないのか否か、夢どころかこれこそ国民の損・不幸を呼ぶビジネスではないのかという声が聞こえてきそうである。

(美原 融)

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